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「囚えられてるのはお前だろ」
「何も分かりはしないくせに!」
語気荒く言い捨てた少年の背に、あれが姿を現した。
豆をひとつかみ炒って肴とし、男はひとり飲み始めたがどうにもキレが悪かった。月を望めばいまはただ白い。だが夜の浅い時分には熟れすぎたほおずきのように赤く水っぽい色をしていた。重くたちこめた大気もどこやら生臭かった。見たか、と聞くと湯気のたつ腕で襟をきゅっとしめ、気味の悪いと呟いた弟子は、薄い板壁一枚向こうでどうやら床についてしまったようだ。
眠れるか。それならいいと男は小皿とグラス代わりの木の椀、もう片手に酒ビンを掴んで庭に赴いた。
山に暮らしていれば誰でもそうするものだろうが、例にもれず男も薬草やらさほど手間を必要としない野菜やらを栽培していてそこを『庭』と称していた。弟子は単に『裏』と言うが今夜のように月の光が銀色に濡らしているところなどはなかなかに風情がある。水の面から覘きこんだ川底のようにゆらゆらと波打って見える地面に座り込むと、男は透明な液体を椀に注いだ。まずは月に。一度捧げてのどに流した。
うまいはず、なのだが。
男は黙々と飲みつづける。草の葉の陰、小石の隙間、鳴きかわす虫の羽裏や男自身が生み出す影に、巣くった闇は男が杯を重ねるごとにぐずぐずと腐り崩れていく。
闇は男の内にもあった。
静寂は突然破られた。現実以外の何物でもないこの音は小屋の戸が開けたてするたびたてる軋みだ。続いて足音。いったんは遠ざかったのが次には近づき、何かの葉が踏みしだかれたか青い匂いが男の座したところにも届いた。おそらくは大根だろうと男は内心舌打ちをした。根も葉も食える貴重な食料だってのに。足音の主はいさいかまわぬようすで駆け抜けざま、山桃の木に寄りかかっている人影に気づいたのだろうたたらを踏んだ。
弟子の名はクラピカと言った。
色変わりしかけている目は硬質な光を映じ、月影の下では凄いように白く冴える膚とあいまって精緻なからくり人形のようだ。でなければ蛇の化身か。
「何をしてる」
お前こそ、と答える代わりに月を指差し椀を掲げた。
「どうだ、一献」
しんと冷えたこの膚が男の前で光と水を弾いた日があった。いつものように走りこんでいて川に出くわし、浅いところを見分けながら先に渡った男が足を滑らした。溺れるほどの深さもなかったが、間をおかずに、師匠! と叫んだ弟子に袖を掴まれ、助けられたような形になった。測り損ねたか、気をつけなければなとからかいながら少年は身に張り付いた衣服を残らず取り払う。犬のように頭を振って金色の髪から水を飛び散らせ、絞った服で身体を拭うその動きにも屈託がない。陽の下で彼は身体全体で息づいていた。植物のようでもあり、動物のようでもあった。取り澄ましたような平生との違いにうろたえた男に、どうした、どこか打ったのかと裸で近づきあちこち触れて、怪我はないなと目元をゆるめた。
……誘うなよ。
「いらない」
そっけない答えは男の予想通りだった。必要なものだけ欲しいという、回り道はしない、時間がないと。いつもどこかじりじりしていると男は見ていた。いまも。
「便所か。漏れそうか」
あきれたように弟子が肩をすくめた。
「酔ってるのか」
「かもな」
わずかに近づく。差し出された椀をちらりと覗き、あ、月、とあげた声は、子供の驚きを底に映していた。
あのときも。
飲め、と軽く振ったが受け取ろうとしない弟子の足を払った。軽く跳躍して避ける。
「鷺かよ」
男がそのとき白い鳥を思ったのは、いずれ飛び立ってしまうという感傷だろうか。
「かなり酔ってるな。……師匠、立たせてやろうか?」
「その前にこっちだ」
再度勧めると一気に飲み干した。タンクトップから伸びた腕のしなやかさと仰向いた喉の滑らかさに男は瞬時見とれた。ふうっ、と息を吐き、立ち上がらせるつもりか男の手を掴んだ。
あのときもこうして手を取った。
その手の中の細い指をたぱねてくしゃりと握った。
ぐん、と力をいれると細い身体がバランスを崩して落ちてきた。顔色は変えないがさすがに効いているのだろう、息が熱い。
「もうちょっと付き合え、こっちはな、我慢できねえならこうして……」
腿の上で後ろ抱きにし、下穿きの中に手を突っ込んだ。刺激を与えられた若い性器は即座に反応を返す。
「何だよ、お前、便所に起きたんじゃねえのか」
言いながら握る手に強弱をつけると質量を増した。
「師匠!」
陸に揚げられた魚のようにクラピカは全身でもがいているが力の勝負ではこの弟子に分は無い、その上急所を握られてもいる。力を加えすぎないよう気をつけながら男は左の手と足でズボンを脱がせた。剥き出された脚が蛇のようにのたくる。
知ったばかりの快楽にまだ少し怯えているだけだ。男の頭は醒めていた。終わればけろりと眠ってしまう、こいつは、オレのようには思っていない。
小指の爪で後ろを軽く掻いてやると、一度大きく身を震わせ、その感覚に呑まれまいとでもするように激しく首を振った。意思でどうなるものではないのだがなと男は思った。
どうなるものでも。
「やめられるか? ここで?」
17と聞いてそのつもりでいたのが存外幼くあの日川辺で男は驚いたのだった。その後それとなく気をつけると、知識面でも精神面にもかなりのむらが認められた。滅んだ一族の禁忌にいまだ縛られているのか特に性的なことには疎く、これでは闇の世界になど棲めまいと男はギャップを少しばかり埋めようとした。それが。
男の手をはずそうとしていたクラピカの指が、もどかしげな動きにかわっていた。それに応えて人差し指を伸ばしてやると、先端からはすでに蜜がにじんでいた。指の腹を回して広げる。膝がしだいに開いていった。
「いい子だ」
目覚めた弟子に、よく眠ってたと話したのは男だ。夢も見なかっただろうと。その一言が羞恥も屈辱も肉体的な痛みもすべて払拭してしまったらしい。あのとき、これきりだ、と釘をさしていればその一度が二度、二度が三度と重なることはなかったのだと、そうするうちに芽吹いた何かを既に持て余して男は思った。
そのとき視線がふと見慣れないものを捕らえた。肩に肉色の亀裂があった。
「ここ、どうした?」
「どう……?」
あがった息からは満足な答えが得られそうもなかった。くっきりと肩に浮き上がっている筋は、二本とも背中から続いている。男がタンクトップの裾を捲るとクラピカは邪魔だとばかりに服を脱ぎ捨て這いつくばるような姿勢をとった。
「うっ……」
月の光にさらされた背中を前に男は息を呑んだ。今にも動き出すかと思われるほど見事な大蜘蛛の刺青があった。頭を下にし、二本の前肢でがっしりとクラピカの腰を掴んでいる。残りの肢は背を抱え、腹部の端は捕らえた獲物を巻こうとしてか糸を吐き出しかけていた。
「師匠、もう……」
剥きだされた臀部は月の光に洗われて仄白く、男を待ちわびてか震えている。その翳りに視線を当てていた女郎蜘蛛が眼を八つとも上げて男をねめつけた。
『これは、私の』
「師匠?」
首をねじって見返ったクラピカの眼は種族の血の色を透かした緋色、対してこの蜘蛛の眼は、啜った生き血を煮詰めたような、暗い紅の色をしていた。
「……飲み過ぎた」
口の中に柘榴の味がする。よくある言い訳だとは思った。
念を刺す能力者。顕現するにはいくつかの条件があるのだろう。あの夜のように、満月の光や酒や、いや……ため息をついて男も立ち上がった。こっちの心持ちによるのだ、あれが見えるかどうかは。そして一度見れば二度と消えない。服の上からでも。
「……諸刃の剣だぜ」
「かまわない」
知らねえようだがうすうす何かを感じていてもおかしくはねえ。オレも、あれきり、抱けなくなった。
『これは、私の』
あの忌まわしさ……かけた相手は死んででもいるか。
今のままでは太刀打ちできない。だが術はあるはずだ。それを見つけだし身につけてやる、オレにできるのはそれだけだ。こいつがここに来た目的も。
「命をかける」
緋の眼になったクラピカの周りでオーラが陽炎のように燃えたつ。その背中で蜘蛛が紅色の目を深く濃く染めた。
「水見式だ、もういっぺんやってみろ、もしかしたら……」
そしていつか、その背中ごと受け入れてくれる相手を見つけろよと男は思った。
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