――――痛っ
瞬間、口の中に広がった鉄の味に、私は意識を取り戻した。
「酷ぇな」
どこか安心したように、男は私から体を離した。
見ると口の端から一筋、赤い糸が垂れている。私がやったのだ。
「すまない。そんなつもりでは」
流れる血を拭おうとする私の手を押しとどめ、男は穏やかに笑う。
「もう、いい」
言って私を抱きしめる。
気がついたのだろう。
私が全てを思い出したことに。
「行くんだな」
男の問いに私は頷いた。
「それが役目だと思うから」
その言葉を予想していたのだろうと思う。
私の頭を抱く腕に、少しだけ力が篭る。
いつか帰ってくる、とは言わなかった。
どこに行こうとしているのかも。
これが答えだ。
身に余るほどの幸福を与えてくれた男に対する、
あまりにも身勝手な。
「馬鹿な奴だ」
「わかっている」
「俺が、折角」
「それもわかっている」
薄い殻を割らないように、
どれほど注意深く、男が私に接してきたか。
私は誰に対してもしたことのないことをした。
「おい…!」
「すこし黙っていろ…」
男の両足を広げて其処に屈みこむと、硬さを増していたそれに舌を充てがう。
頭上で男が息を呑むのがわかった。
どうすればいいのかなど私にはわからなかったけれど、この男が私を想っているのがわかるから。
「……っ」
私は全てうけとめたあとに男を抱きしめた。
「すまない」
謝罪は何の意味もない。けれど言わずにいられなかった。
「お前に何も、返せない」
暫くして、かすれた声が聞こえてきた。
「あんなふうに、死んでいった子供を知っている。雨に濡れて、たったひとりで。」
子供を拾った理由。聴こえていたのか。
「ただここにいればよかったんだ。ずっと、このまま」
私は何も言えなくなった。
男が私を拾ったときには、
私はすべてを終えていた。
まだ息のある同胞を探しては最後の声を聞き報復を誓い、
その首に手をかけて後始末をした後、亡骸をすべて土に返し、
降り止まぬ雨の中何日も何日も、墓の下の同胞と話し続けた。
あってはならないことだろう。一晩で、たったの数人に根絶やしにされたなど。
思い煩うことはない。
そんな汚名など、私がひとりで晴らしてみせる。
選ばれた民などではなかったけれど、
どうせ全てが嘘ならば、せめて虚飾の幕を引く。
誇り高い復讐者の仮面を被り、
空虚な誇りに満ちた種の最後の一人として、
相応しい葬送をただ、望む。
俺と来るか、それともここで死にたいか。
あの日の男の声が蘇る。
熱にうかされながら私は答えた。まだ逝けない。それに。
逝くときは一人、誰の手も借りないと。